慶應大学野球部に所属していた、清原和博の息子である清原正吾さん。
2024年10月24日のドラフト会議で指名されなかったことが記憶に残っています。
清原正吾さんは、そのあと独立リーグなど9球団からオファーをうけていたのだとか。
しかし、清原正吾さんはすべてのオファーを断り野球から離れる決断をしたと報じられました。
この記事では、以下のテーマについて取り扱います。
- 清原正吾はスポーツ推薦ではなく生粋の慶應ボーイ
- 清原正吾は中学・高校時代は野球部ではなかった
それでは、詳しく見ていきましょう。
清原正吾はスポーツ推薦ではなく生粋の慶應ボーイ
清原正吾が慶應大学に在籍しているのは有名です。
皆さんの中には、慶應大学に推薦で入学したのか気になっているかもしれません。
実は、清原正吾はスポーツ推薦ではなく慶應幼稚舎から大学まで進学した慶應ボーイなんです!
ちょっと待って、聞いたことあるけど慶應の学生はみんな慶應ボーイなんじゃないの?
明確には違います。外部から進学した場合は、慶應ボーイとは言わないんです。
推薦入学と慶應ボーイの違い
慶應ボーイの定義
「慶應ボーイ」とは、慶應義塾幼稚舎から始まり、中等部、高等学校を経て慶應義塾大学まで一貫して進学した男性を指します。
ちなみに慶應大学には、スポーツ推薦という制度は存在しません。
一般的な推薦入学には、以下の2つの制度があると言われています。
- 総合型選抜(AO入試): 自己推薦書や調査書、評価書を基に選考が行われ、面接や小論文が課されることがあります。特に、特定の分野での活動実績が重視されます。
- 学校推薦型選抜: 指定校推薦や自主応募制の推薦入試があり、特定の高校からの推薦を受けた生徒が対象となります。この場合、学校側からの推薦が必要。
強いていうなら、AO入試でスポーツの実績をアピールすることは可能でしょう。
慶應大学では、他にもいろいろな推薦入試の制度があるようです。複雑ですね。
ちなみに芸能人で厳密な慶應ボーイっているのでしょうか。調べたところ、以下の人がそうらしいです。
慶應ボーイの芸能人 | 慶應ボーイではない |
---|---|
櫻井翔(嵐) | 菊池風磨(Sexy Zone) |
岩田剛典(EXILE) | |
中田敦彦(オリエンタルラジオ) |
櫻井翔さんは、ジャニーズで芸能活動を小学校から両立しているとんでもない人です。
清原正吾さんは、慶應義塾幼稚舎にある以下の入学試験をパスして大学まで進学したと考えられます。
- 絵画制作テスト
受験生は与えられたテーマに基づいて絵を描く課題が出されます。このテストでは、創造力や表現力が評価されます。試験官からの質問に対して、自分の作品について説明する能力も求められます。 - 運動テスト
運動テストは「模範体操」と「連続運動(サーキット運動)」の2つの部分から成り立っています。模範体操では、指示に従って体を動かす能力が試され、連続運動では、決められたルールに従ってスムーズに運動を行うことが求められます。 - 行動観察テスト
このテストでは、集団での活動を通じて、受験生の社会性や協調性が観察されます。具体的には、指示に従って行動する能力や、他の子どもとの関わり方が評価されます。
実は、慶應義塾幼稚舎にはペーパーテストが存在しないんです。
清原正吾さんは、運動テストの成績もよかったのでは?と想像してしまいますね。
あと幼稚舎と聞いて、慶應には幼稚園があるの?って疑問に感じたかもしれません。
清原正吾の野球は小学校の3年間のみ
慶應幼稚舎は幼稚園ではなく、一般的にいう小学校に相当します。
わたしはこれを知らず、恥をかいた記憶があります。
その慶應義塾幼稚舎は、東京都渋谷区恵比寿にあります。
清原正吾さんは、慶應義塾幼稚舎に通っていた小学3年生の時から野球を始めました。
当初は、幼稚舎内のクラブ活動ではなく、外部の少年野球チーム「オール麻布」に所属していました。
主に二塁手としてプレーしていたようです。
小学5年生の時には、チームの4番バッターとしても活躍しており、ホームランを打つなどの活躍を見せていました。
清原和博さんから直々に、「センター返し」や「リラックス」といった打撃の基本を学んだようです。
やはり、父親から英才教育をうけていたんですね!
清原正吾さんは6年生までは、野球をやっていたようです。
ということは、野球をやっていたのは小学校のこの3年間ということです。
中学、高校は何をしていたのか気になりますよね。
清原正吾は中学・高校時代は野球部ではなかった
清原正吾さんは、中学校に進学すると野球をやめてしまいました。
なぜかと言うと、野球が嫌いになってしまったからです。
当時、父親である清原和博さんが「覚醒剤取締法違反」で逮捕され、離婚にまで発展していた背景があります。
中学はバレーボール、高校はアメフト
なぜ野球をやらなかったのか、それは父親の逮捕と両親の離婚があったからです。
清原正吾さんと、当時のできごとを追ってみます。
清原正吾さんは当時12歳で小学生。
清原正吾さん、弟・清原勝次さんの親権は亜希さんへ
清原正吾さんは当時14歳の中学生。
私も少年野球経験者なので、わかりますが
野球はヤジが当たり前のスポーツです。
必ず、父親のことをヤジる人があらわれるでしょうね。そんな環境では、集中できないでしょう。
中学生は多感な時期ですし、いじめに遭うことは想像できます。
父親が有名だと、二世の宿命で比較もされます。
家族が有名だと、いじめに遭うのは「こっちのけんと」のケースでも書きました。
そのため清原正吾さんは中学時代は、バレーボールをすることにしました。
学校内の部活で、エースアタッカーとして活躍をみせています。
具体的には、
中学2年生の冬、東京と神奈川の私立学校が集まる大会で優勝するなど持ち前の才能を発揮しました。
そして、高校時代はアメフトをはじめることになります。
理由は、中学3年生のときに友人に紹介された「フラッグフットボール」がきっかけでした。
清原正吾さんは、実はフラッグフットボールの東日本代表に選ばれ「日本一」になったというから驚きです。
フラッグフットボールはアメフトと似ています。
違いは、タックルの有無です。アメフトは、タックルがあります。
そこで、高校では競技内容が似ているアメフト部に入部します。
ブランクでも慶應野球部に入部できた理由
清原正吾さんは、野球を小学校の3年間しかやっていませんでした。
なぜ、嫌いになった野球をまた再開したのでしょうか。そして、大学に進学し野球部に入部できたのか。
この二点について、書きます。
嫌いになった野球を再開した理由
それは、家族を戻すために野球をするというものでした。
一時期、父親との関係が悪化。
それは、2016年に父親の「覚醒剤取締法違反」での逮捕が背景にあったのは言うまでもありません。
そして清原和博さんは、2018年に執行猶予期間を終えました。
この時期から、約2年後の2020年、清原正吾さんは慶應義塾大学に入学することになります。
そして父親が社会復帰を果たしたのも、ちょうど2年が経過した頃と重なります。
次第に父親である、清原和博さんと3つ下の勝児さんと野球を楽しむ機会が増えたのだそう。
清原正吾さんは、父親が社会復帰に向けて努力している姿を見て、自分も何かできることはないかと考えるようになりました。
父のためにも、「絶対に神宮の舞台に立ってやる」と気持ちが変化していったのです。
ついに、清原正吾さんは野球部への入部を決意するのでした。
慶應野球部に入部できた理由
慶應大学野球部は、六大学野球で実績のある名門です。プロ野球選手を何人も輩出するところです。
例えば、高橋由伸(ジャイアンツ)、伊藤隼太(タイガース)、福谷浩司(ドラゴンズ)などの選手がいます。
そんなに簡単に入れるものではありません。
あと、野球が嫌いになって止めてから6年ものブランクがありますよね。
そこで清原正吾さんは、まず硬式ボールに慣れるところから始めました。
少年野球は、基本的に軟式ボールです。硬式ボールとは挙動がかなり違います。
そのギャップを埋めてしまうところ、天性の才能を感じませんか。
そんな清原正吾さんが、慶應大学野球部に入部できた理由は
- 中学・高校で身体能力・精神力を培った
- 父親との関係が改善したから
だと考えられます。
その結果、どうなったか気になりますよね。
大学では、清原さんは開幕戦から4番打者として起用され、チームの中心選手として活躍しました。
野球で4番といったらエースの打順ですね。
とんでもないバケモノと言わざるを得ません。
まとめ
まとめです。清原正吾さんは、
- スポーツ推薦での大学入学ではない
- 幼稚舎から大学までの生粋の慶應ボーイ
- 中学・高校では野球をしていない
- 野球を再開したのは家族を取り戻すため
- 6年のブランクも慶應大学野球部に入部
という、とんでもないバケモノだった!
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