谷川俊太郎さんが2024年11月13日に老衰のため亡くなりました。
享年92歳で、東京都出身の詩人として、戦後日本を代表する存在として広く知られていました。
私は谷川俊太郎のことを学校の教科書で知りました。ところで谷川俊太郎さんの若い頃ってどんな感じだったのでしょうか。
この記事では、若い頃の画像と、谷川俊太郎さんの代表作やCMで話題になった朝のリレーを紹介します。
谷川俊太郎の若い頃は?
昨日は4/15の池袋での対談の準備をしていた。まだ少し時間があるのだけど、資料作りが必要なので悠長にしていられない。
— 松下育男 (@fampine) March 9, 2023
ところで谷川俊太郎さんが若い頃に撮った写真の展覧会をやっている。行ってみよう。
谷川さんが詩を書き始めてからはもうずっと、谷川さんの時代と言ってもいいのだろう。 pic.twitter.com/GcA8ST44OB
目がクリっとしていて、ハンサムです。
谷川俊太郎さんは若い頃に、写真を撮る活動をしていました。彼は18歳から21歳の間に、国産の二眼レフカメラを用いて写真を撮っていたようです。
当時愛用していたカメラは18歳から21歳だとすると、1931年うまれなので1949年~1952年です。
愛用していたカメラは以下のうち、いずれかだと考えられます。
機種名 | 発売時期 | 当時の値段 |
---|---|---|
リコーフレックスIII | 1950年9月 | 7,300円 |
リコーフレックスIIIB | 1951年3月 | 8,300円 |
リコーフレックスIV | 1952年 | 8,300円 |
例えば、リコーフレックスIIIの7,300円はいまの価値に置き換えると約2万〜2万5千円だったと思われます。
二眼レフの定価が3万円前後だった時代に定価7,300円で発売され、爆発的ヒットしたモデルでした。
若い頃の谷川さんは、リコーフレックスで撮影した姿だと考えられます。
しかも写真は、誰かに見せるためではなく、彼自身が心に響いた対象や身の回りの美しいものを記録するために撮影されたものだというのです。
なんか味のある写真ですね。
ちなみにリコーフレックスがどんなカメラで、どんな使い方なのかは以下の動画が参考になります。
写真の特徴
テーマ: 日常の何気ない瞬間や、家族、友人など身近な人々を被写体にしたものが多く、1950年代の日常生活を知ることができる写真です。例えば、ひとりの男性が港で船を眺めている風景、車からこちらにむけてポーズをとる子供たちの写真です。
スタイル: モノクロームの写真で、ゼラチン・シルバー・プリント技法を用いています。これにより、写真に独特の質感と深みが与えられています。
その他の写真を見たい方は、こちらをクリックすると何枚かみることができます。
http://www.gallery-bauhaus.com/230301_tanikawa.html
個展
谷川俊太郎さんの写真は、個展が公開されています。
例えば、「楽園 lost & found」という写真展が東京のお茶の水のgallery bauhausで開催されました。この展示では、1950年代に撮影された未公開の写真が展示され、彼の詩とともに紹介されたこともあります。
ひょっとすると、谷川俊太郎さんの写真はどこかでみられるかもしれません。
疎開時のエピソード
谷川俊太郎さんは戦時中、中学2年生のときに京都に疎開しました。彼は伏見三中に通っていた時期がありましたが、疎開先での生活は東京よりも恵まれていたと述べています。
京都での疎開生活では、標準語を話す谷川さんが周囲の子供たちからからかわれることがあったといいます。これは、彼が東京出身であることから、関西弁とは異なる標準語のアクセントが目立っていたためです。
詩人としての成長
若い頃の谷川さんは、詩を書くことに対して特別な興味を持っていたわけではありませんでした。意外ですね。
詩はのめりこみすぎると日常生活から逸脱するような世界で、人間関係がおろそかになるからだというのです。
ではなぜ詩にずーっと取り組むことができたのでしょうか。それは家族を養うために詩を書いていた事情があったからです。
詩を書くことが生活の一部となっていった一方で、詩を書くことが単調でつまらないと感じていたこともあったのだとか。
しかし、書き続けてきて今があると振り返っています。
谷川さんの詩のスタイルは、シンプルでありながら深い意味を持つことが特徴です。例えば、「生きる」はこのような詩です。
生きる
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと(抜粋)
谷川俊太郎「生きる」より
ところで、谷川俊太郎さんの奥さんやはお子さんはどのような家族構成だったのでしょうか。
谷川俊太郎の奥さんや子供など家族構成
谷川俊太郎さんの家族についてです。
谷川さんは、3度の結婚をしています。2番目の奥さんとの子供が作曲家の谷川賢作氏であることが知られています。
家族構成
(父親)谷川徹三: 哲学者であり、法政大学の総長を務めたこともある著名な学者です。父の影響で谷川俊太郎さんも文学や哲学に深い関心を持つ。
(母親)多喜子: 衆議院議員だった長田桃蔵の娘。
奥さんについて
谷川俊太郎さんは生涯で3度結婚しています。
- 岸田衿子: 最初の妻で、詩人としても知られています。1954年に結婚しましたが、1956年に離婚。
- 大久保知子: 2番目の妻で、新劇女優でした。1957年に結婚し、2人の子供をもうけましたが、1989年に離婚。
- 佐野洋子: 3番目の妻で、作家としても有名です。1990年に結婚しましたが、1996年に離婚。
子供
谷川俊太郎さんの子供に賢作さんがいます。
- 谷川賢作: 作曲家。2番目の大久保知子さんとの間に生まれた息子。
谷川賢作さんは、映画やドラマの音楽を担当されたことのある作曲家です。例えば、『その時 歴史が動いた』の作曲をてがけています。
谷川俊太郎はどこの出身なの
谷川俊太郎さんは、1931年12月15日に東京都で生まれました。
具体的には、東京府豊多摩郡杉並町(現在の東京都杉並区)の出身です。彼の生まれ育った地域は、文化的に豊かな環境であり、多くの文化人や芸術家が住んでいた場所でもあります。
阿佐ヶ谷との関係
谷川俊太郎さんは、特に阿佐ヶ谷に深い思い入れがあります。彼は幼少期をこの地域で過ごし、阿佐ヶ谷の風景や人々が彼の詩作に影響を与えたとされています。阿佐ヶ谷は、彼の詩の中にもしばしば登場し、彼の作品における重要な背景となっています。阿佐ヶ谷は、戦後の日本において多くの文化人が集まる場所であり、谷川さんもその影響を受けて育ちました。彼の詩には、日常生活や身近な風景が描かれており、阿佐ヶ谷での生活がその基盤となっています。
谷川俊太郎の代表作は?
谷川俊太郎は、日本を代表する詩人だけでなく、作詞や絵本などの作品があります。
以下に彼の代表作をいくつか紹介します。
代表作
『二十億光年の孤独』 (1952年)
谷川俊太郎のデビュー作であり、広大な宇宙や人の孤独をテーマにした詩集です。この作品は、彼の詩人としての地位を確立し、長年にわたり多くの読者に支持されています。
- 『シャガールと木の葉』:詩集の一つで、独特な視点と表現力が光る作品です。
- 『世間知ラズ』 (1993年):社会や人間関係に対する鋭い洞察を描いた詩集で、成熟した詩風を感じることができます。
- 『女に』:女性をテーマにした詩集で、谷川の感性豊かな表現が特徴です。
- 『ことばあそびうた』 (1973年):言葉遊びをテーマにした絵本で、リズミカルな言葉の響きが魅力です。この作品は、子どもたちにも親しまれています。
『鉄腕アトム』の主題歌
手塚治虫原作のアニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけ、日本初のアニメソングとして広く知られています。
谷川俊太郎の作品は、詩だけでなく、翻訳や絵本、歌の作詞など多岐にわたります。彼の詩は、シンプルでありながら深い意味を持ち、多くの人々に影響を与え続けています。
ネスカフェのCMで有名な朝のリレー
「朝のリレー」が使用されたネスカフェのCMは、主に2003年から2004年にかけて放映されました。
このCMを朝に、観たひともいるのではないでしょうか。特に「ズームイン!!(朝!)」のCMで流れていた記憶があります。
このCMは、谷川俊太郎さんの詩を朗読する形式で、彼の作品の美しさとコーヒーのある朝の情景を結びつけた印象的な内容となっています。
特に、2003年はイラク戦争が勃発した年であり、CMはそのような時代背景の中で、日常の大切さを再認識させるメッセージを持っていました。
何気なく起きて、何気なく会社や学校にいく。その一方で戦争もおきている朝の日常を考えさせられる内容になっています。
まとめ
まとめです。
詩人として、有名な谷川俊太郎さんの若い頃を紹介しました。
- 戦争中に青春時代を過ごし、京都へ疎開していた
- そこで東京の方言をクラスメイトからからかわれた
- 20歳ころはリコーフレックスで個人的に写真をとっていた
- 家族を養うために詩を書いていた時期がある
- 詩に特別な思い入れはなく気づいたら書き続けていた
意外なのは、詩を書くことがもともと好きだったわけでもなく、生活のために書いていた時期があったということ。
しかも気づいたら書き続けていたという点です。
人間だれしも長く続けていたら習慣化するのでしょう。
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